athome-developer’s blog

不動産情報サービスのアットホームの開発者が発信するブログ

アットホームオンラインシステム

情報システム部の豊田です。

 この度、” athome developer's blog"ということでシステム開発者の目から見た記事を投稿するブログを立ち上げました。何名か持ち回りで投稿していきますので、よろしくお願いいたします。


 他の執筆者はエンジニアらしく、普段の仕事で出会った新しい技術であったり、開発効率を上げる為の独自ツールの話であったりと、「開発者」らしい内容となるようですが、私は今となってはほぼコードを書くことはなく、直近では「こんな感じにやるとできるはずだよ」ということだけをメンバーに教えたけど、どうしても進まないというのでjqueryを使ったJavaScriptをチョロっと書いたくらいです。

「チョロっと」なんて言ってますが初めて書いたので結構時間を使ったのは内緒です。そして楽しかったのも事実です♪

 

 というわけでテックブログ系のTips的なものは書けないので、ご挨拶がてらに私の目からみた当社の「アットホームオンラインシステム」の変遷みたいなものをご紹介させていただくことにします。

 

 今からおよそ30年前に「アットホームオンラインシステム」はすでにサービスを開始していました。ハードウェアとソフトウェアを一体で販売する形式で、大きな汎用ホストコンピュータをセンターシステムとして電話回線を通じてサービスを提供していました。「アットホーム総合コンピュータシステム」というのが正式名称です。

 この時販売していたハードウェア(パソコン)は、モニターと本体が一体型で小さなハードディスク(おそらく20MBだったと記憶しています。メガバイトです))と8インチのフロッピーディスクドライブを持ったメモリが1メガバイトにも満たない16bitマシンでした。
 アットホームオンラインシステムのソフトウェア部分と一緒にワードプロセッサ表計算ソフトもバンドルされていて、ワープロで作った文章はフロッピーディスクに保存する仕様だったと記憶しています。もちろん連続用紙をセットするインパクトプリンタもセットでした。当時としては「総合コンピューターシステム」の名に恥じないもので、これが「アットホームオンラインシステム」のバージョン1で、検索条件は物件検索が中心となるメニューでした。

 次に販売されたバージョンは、モニターと本体が別体となり、ハードディスクも40MBとなり、CPUやメモリも強化されて5インチのフロッピーディスクドライブのあるパソコンになりました。こちらもワープロ表計算ソフトがバンドルされていて、アットホームオンラインシステムのソフトウェア部分もバージョン2となりました。メニューの数が増えていたことは覚えているのですが、残念ながらバージョン1との具体的な差は失念してしまいました。ユーザーインターフェースとしては、すべて画面に番号付のメニューが表示されていて、対応する番号をテンキーで入力するものでした。「1:物件検索」だったら「1」を押してエンターキーを押下するUIです。

 当社のオンラインシステムの「売り」は、「ファクトシート(間取り図や価格・賃料などのチラシ。不動産会社の店頭に掲示してあるものです。)」がFAXで取り出せるサービスでした。この機能は、ファクトシートをスキャンして電子化し、FAXで自動送信する仕組みでしたが、それより以前は、ファクトシートの出力依頼があると、センターに指示伝票が届いて、それに従って当社スタッフが手で利用者宛にFAX送信する仕組みでした。今となっては笑い話の一つではありますが、すべてを自動化・コンピューター化することがシステム開発ではなく、手で送信する業務もシステムの一つとして組み込んだ「サービス価値」を最優先とした仕組みだったんですね。その送信業務はよくお手伝いに行きましたが、その業務の担当スタッフからは可愛っていただいていたので居心地のよいヘルプ業務だったことが思い出されます。


 また、コンピューターを扱うことに不慣れな方々には、電話で検索条件を伝えてもらい、希望の物件のファクトシートをFAXでお送りするサービスもありました。このオペレーター業務も何度かお手伝いしたことがあり、お客様から「ありがとう、助かったよ」と言われてとてもうれしかった経験もあります。

 

 丁度そんな頃に私は当社へ入社いたしました。大きなホストコンピューターが二台あり、主に不動産物件情報を管理するものと受注販売情報を管理するものに分かれておりました。今のように自分の机の上に個人専用のパソコンなどというものは存在せずに、ホストコンピューターと対話する為のTSS端末がフロアの壁際に並んでおり、開発に当たっては自席からそこまで移動してCOBOL言語のプログラムを入力し、コンパイルし、JCL(!)を記述してそこから作ったプログラムを実行していました。

 「マシン室」と呼ばれるホストコンピューターが鎮座した専用の部屋があり、そこは24時間いつでも「ゴー」という音が唸っていてなんだからわからないけど「凄い機械だ」と思っていました。後にコンピューターの音ではなく空調の音だと気づくのですけどね。そして日曜日の夜にはコンピューターと空調の電源を止める勤務があり、静まりかえったマシン室はとても怖かったことを思い出します。今はすべての仕組みがデータセンターにあり、サービスも24時間稼働が普通になりましたからこのような業務はほとんどなくなりました。


 この時はホストコンピューターのオペレーターとしての業務がメインでしたが、たまに物件情報を紙に印刷するプログラムを作ったりしていました。この頃はまだデータがどこから来て、この印刷した紙を誰が使うのかは全然わかっていませんでした。仕事をした気にはなっていましたが。

 そんな時、壁際のTSS端末にはキーボードにある特殊なキーを押すと画面が切り替わり、ホストと対話するTSS画面の裏側に「E>」という何を言わんとしてるのかさっぱりわからない画面が存在していました。先輩から教わった「OW」とか「OP」と入力してエンターキーを押すとワープロ表計算ソフトが起動しました。「この画面はなんですか?」という質問に「よくわからないけどオレも先輩から教わった」という代々引き継がれてきたその「呪文を打つとワープロが動く画面」に、ある時いつも「MS-DOS」の文字があることに気づきます。意味はさっぱりでしたが、「俺ってMS-DOS」と主張していることは伝わってきました。適当な文字を投入すると「コマンドまたはファイル名が違います」というそっけないヤツでした。

 ある時、フラリと入った本屋さんの棚に「MS-DOS」の文字が並んでいることに気が付きます。手に取ってみると会社にあるワープロが動く画面とは似てはいるけど、ワープロの話は出てこないし、「E>」ではなく「A>」だし、「DIR」とか「COPY」なんて説明が並んでいます。この本のとおりに会社のパソコンに向かい合ってみると何かわかるかもしれないということで買って帰ることにしました。

 翌日、会社でその本を読みながら壁際のパソコンに本に書いてある通りに入力するとはじめて「コマンドまたはファイル名が違います」以外の反応があり、新しい世界に突入したのを思い出します。しかし、「こんなことができて何がうれしいんだ?」というのも正直な感想でした。そこからしばらくはパソコンのハードディスクの中を漁ったりバッチファイルで遊んでを学んで段々とMS-DOSを理解し、その中にBASICがあることに気づき、それ用のマニュアルがあるのを見つけてからはBASICの世界であーでもないこーでもないと業務の隙間時間にカチャカチャと触っていました。同じように興味を持って一緒になってイジってくれる先輩たちがいたのも大きかったです。

 

 今でもそうですが、当時から当社は技術習得の時間に対して寛容だったことを思い出します。「あいつは遊んでばかりいる」と思われていた可能性も否定しませんが。会社もパーソナルコンピューターの可能性を模索していた時代だったようです。会社そのものが新しいモノ好きなんでしょうね。社内の空気は昔からこんな感じでした。

 その頃、まだオンラインシステムは事業の中核ではなく、「ファクトシート」が会社を支える柱としてあり、世の中にパソコンが当たり前のようにある今とは違いましたが、コンピューターに対する投資はかなり積極的だったんですね。

 この辺りから壁際のパソコンとホストコンピューターの関係、私の所属する部署のフロア以外で、カチャカチャとパソコンで業務をしている人たち、オンラインシステムとの関係などが線と線で繋がりだしました。お恥ずかしい話ですが、先輩や上司からはさんざん説明を受けていたものの、全体像が大きすぎて今一つ理解できていなかったんですね。

 初期のオンラインシステムは汎用機との半二重通信で成り立っていました。また「パソコン」と表現していますが本当は「パーソナルワークステーション」と呼ばれていて、まだまだ特殊な機械で価格もべらぼうに高かったと記憶しています。横には通信する為の電話機もセットでした。それでも不動産会社がオフィスにいながらにして不動産情報を得られるこのシステムはある一定の評価を得て利用者は増えていきました。また、小さな不具合の修正版の配布はお客様の店舗を一軒一軒訪問して、一時的にパソコンをお借りしてインストールしていました。特例でしたが私もお客様と接して来いと言われてお邪魔したことが良い思い出として記憶されています。

 バージョン3からは、価格の安いパソコンとのセットでの販売で比較的利用しやすい状況となり利用者は右肩上がりだったようです。
ちなみにこの時点までオンラインプログラムはホスト側も端末側もCOBOLで書かれていました。改めて振り返るとびっくりですね。
ご利用されているお客様もまだ慣れておらず「モニター」とか「ディスプレイ」という言葉より「テレビみたいなの」という表現が当たり前の時代でした。

 しかし、ある一定の利用者を獲得した頃から頭打ちとなります。世の中にパソコンが浸透しだしたことによって、あるメーカーの1社に人気が集まることとなり、そのパソコンでは当社のオンラインシステムは動作しないことが大きな課題となりました。オンラインシステムはハードウェアとセットで販売していたのですが、パソコンが浸透したことですでにパソコンを導入されている方々には当社のオンラインシステム用に新たにパソコンを導入することがハードルとなったとも言えます。

 この状況を打開する為に突如として社内にUNIXマシンが現れました。このUNIXコンピューターにセンターシステムのフロントエンドをやらせることと、MS-DOSマシンならほとんどのパソコンで動作するオンラインシステムプログラムの開発、当社のサービスの対象となるパソコンの範囲を一気に広げました。通信も全二重通信となり、通信機器も露骨な電話機ではなくモデムになりました。これがバージョン4となり、ハードウェアとのセット販売もありましたが、ソフトウェアだけを提供するケースも出てきました。またワープロなどのオフィススイートはバンドルせずに、お客様の使いたいソフトが利用できる環境になりました。みんなが口をそろえて「一太郎」「花子」と言っていた時代です。パソコン通信というネットワークコミュニティが流行った時代でもあり、MS-DOSはVer3.1で、通信速度は2400bpsでした。
 この頃、電話機だけで物件検索ができる、大きな液晶画面付き電話機の商品が生まれたりしました。これは商売としては芳しくなかったようですが・・・。
この時に散々遊んだ勉強したMS-DOSから広がっていったコンピューターや通信の知識が大いに役に立って、少しは会社に貢献できてるんではないかと初めて実感した頃でもあります。私の学習意欲をあたたかい目で見守ってくれた社風のおかげです。

世の中のパソコンブームにふるい落とされることなく時代に適応しながらサービスを提供し続けていたオンラインシステムですが、次のムーブメントがやってきます。そう、ウインドウズです。マウスです。Windows3.1まではなんとかDOS窓の中で誤魔化していましたが、Windows95の登場で無視できなくなりました。

 

オンラインシステム危うし!

 

気が付いたらずいぶんと長くなりました。

ここから先のお話は、また次の機会に。